黒板に書かなければならない得意先の名前もローテーションを組んで書いているのだが、書いている耕作が見てもその不自然さはぬぐい去れないのだった。
「東山さんは元気にしているかね」
 いつもは行き先を聞くだけで滅多に質問もしない課長が耕作の行き先を聞いて質問をしてきた。
「はぁ、東山?」
 突然課長の口から出た『東山』という人物を咄嗟に思い出すことができなかった。
「山路さん本当に行ってるのかなぁ」
 三宅が二人のやり取りを聞いて進藤と小声で言葉を交わした。その声は結構大きく、耕作には三宅がわざと課長の耳に届くように言っているとしか聞こえなかった。
「山路君、東山さんと言えば営業部の課長さんだよ。しっかりしてほしいな。よし、僕は今日、君に同行することにするよ」
 明らかに、三宅の言葉を聞いたために耕作に不審を持った課長の、最悪の一日を保証する申し出であった。
 耕作は三宅をにらみ付けた。
      
 帰りの電車の中で、耕作はぐったりと疲れ切っていた。一日、課長と一緒に営業に回った会社の件数は、耕作が一週間かけて回る件数と同じだった。おまけに、行った先で新入社員に指導するかのように耕作は厳しい指導を受け、耕作の面目は丸潰れになってしまった。
 昼飯も、一旦会社に帰って美智子の作った弁当を食べようと計画していた耕作なのに、課長はいつまでたっても会社に戻ろうとはしなかった。
 二時を回った頃、ようやく昼飯にしようと言い出した課長は、そのまま得意先の近所にある定食屋に入ってしまった。
 会社には夕方まで戻れないと観念した耕作が仕方無く店に入って行くと、お昼のサービスタイムが終わったところで値段の高い昼飯を食べる羽目になってしまった。
 せめて課長がおごってくれるのかと期待していたが、課長は一人分の代金をテーブルに置くと、楊枝をくわえてそそくさと出て行ってしまった。結局、耕作は課長の分の定食の消費税まで支払う羽目になってしまったのだった。
       
 耕作の膝に乗ったカバンは食べずに残した弁当の重みでドッシリと重く、その事も耕作をぐったりと疲れさせるのだった。
 それにしても、三宅の一言でこんな目に合ったのかと思うと押さえようのない怒りが沸き上がってくるのだった。
(許せない。あいつこそ、毎朝会社を出ては喫茶店に行き、それからパチンコに行っているくせに)
     
 次の日、耕作は晴れ晴れとした表情で満員電車の吊り革に掴まっていた。
 課長と一緒だった悪夢の昨日を忘れたわけではない。しっかりとその時の屈辱的な様子は心の中に刻みこまれている。
 打ち合わせを終えると耕作は、急に用事を思い出したという素振りを見せて得意先に電
話を掛けた。もちろんボタンを押すところまでは本当にやってみせたが、その直前に左手で電話のフックを押さえて電話がコールする直前に切った。
「どうも、お電話遅くなりまして申し訳ありません」
 耕作は電話に向かってペコリと大きく頭を下げた。もちろん受話器の向こうでは誰も応答のしない、ツーという無機質な機械音だけが聞こえているだけである。
「例の商品ですね。はい、わかっています。少々やっかいな説明になりますが…。ハイ、そうですその通りです」
 耕作の演技を疑う者は誰一人いなかった。笑ってみたり、恐縮してみたり、一人芝居は完璧に実行されていた。
 そうこうしているうちに三宅が営業に出て行くのが見えた。同じように、進藤も三宅の直ぐ後を追いかけるように出て行った。
 課長を見ると課長も得意先に電話を始めていた。耕作は課長の電話が早く終わってくれることを心の中で祈り続けていた。
 課長の電話は結構長く続いていた。耕作の頭の中では一日中電話をしているように長く果てしなく感じるのだった。
 ようやく課長が受話器を置いた。しかし、続けさまにもう一本電話が課長に掛かってきた。アンラッキーな出来事である。
 耕作が一人芝居を始めてから実際には十分は経っていた。これ以上は嘘電話は無理と判断した耕作は仕方無く電話を切った。
 電話を切った耕作は今度はトイレに行くために席を立った。
 トイレに入ると、耕作は大便のブースに入り自分の腕時計で時間を計り始めた。ともかく、先に課長が会社を出て行ってくれなければ、前日から入念に考え続けていた計画は失敗に終わるのだ。
 時計と睨めっこしながら耕作は不自然ではない大便所要時間というのは何分なのか悩んでいた。実際にやればよかったのだが、規則正しい生活習慣が幼い頃からついている耕作は決まった時間以外には滅多に便意を催さないのだった。
 三分が経った。随分長く便所に居るような気がしてきた。
(出ようか。いや待て、便秘気味の人間であれば十分以上はきばっているのではないか。いや、それにしても十分は不自然だ)
 耕作の頭の中は適正トイレ時間の判断を巡ってパニックになり始めていた。
 五分が経過した。耕作の辛抱は五分が限界であった。トイレットペーパーを荒々しく引っ張り出し、便所中に十分響く音を立て、それから水を流した。
(あれっ、俺って水を流してからズボンを上げるんだったっけ、それともズボンを上げてから水を流すんだったっけ)
 いつもの行動なのに、注意していなければそれすらわからなかった。仕方無く耕作は二十秒数えてからトイレから出た。
 トイレから出ると入れ違いに課長がトイレに入ってきた。
 突然の登場に戸惑ってしまった。こんなシチュエーションは計画にはなかった。
(こんな時は声を掛けるのだろうか。「トイレですか」では不自然だし、何も言わないのも不自然ではないだろうか)
 結局、一言も言葉を交わすことなくトイレから出た耕作はそのままデスクに戻り、商品見本帳を見始めた。もちろん、特別見るべき商品はない。時間潰しである。しかし、さも調べなければならない振りを装って商品の説明を入念に眺めた。
「どうした」
 トイレから出てきた課長が耕作に声を掛けた。
「いえ、今の電話で商品の説明を求められたもので、一応答えはしたのですが、気になって…」
 耕作の返事を特別聞きたかったわけではなかったようで、耕作の話の途中で、課長は適当に合槌を打つと自分専用の車のキーを手にして出て行ってしまった。
 ついにチャンスが訪れた。
 耕作は課長の後ろにあるキャビネットから自分が乗る営業用の車の鍵を取り、ついでに三宅が乗って行った車のスペアーキーも手に入れた。
 駐車場に向かった耕作はそこで課長の姿を目撃した。もちろん、課長も営業に向かおうとしている耕作を見た。そして、広い駐車場には今から耕作が乗り込もうとしている営業車と出て行こうとしている課長の車しか残ってはいなかった。
 車に乗り込んだ耕作に行くあてなんかあるわけもなかった。今日はそんな暇な時間なんてないのだ。今日は天誅決行の日と決めていた。
 適当に車を走らせながら、耕作は十時になるのを待っていた。

 いつも行く喫茶店で、モーニングサービスを注文した三宅はマガジンラックから漫画を手に取り熱心に読み耽っていた。課長が代ってから三宅は毎朝喫茶店に行くことが出来て満足していた。それまでの課長の時は、課長はデスクワーク中心の仕事を部下達に強要した。それが、課長が代ってから息が詰まりそうな事務所に四六時中いる必要がなくなったのだ。
 もちろん、営業にも行った。特に受付けの女の子がかわいい会社には用もないのに頻繁に通った。だからといって営業成績が伸びたということもなかった。
 手を抜くことを入社三年目で覚えていた。三宅はそれもテクニックと甲斐性だと思っていた。
 今も、そんな生意気盛りの三宅は進藤と一緒に喫茶店でくつろいでいた。
 三宅は、自分よりも一年遅く入社した進藤とは何故かしら気が合った。三宅の課には八人の同僚がいたが進藤以外は三宅よりも年上だった。先に生まれたからとか、先に入社したからとかいってエバルのは三宅の好きな事ではなかった。だから、三宅は進藤に対して一度も先輩面したことはなかった。
 そんな三宅を進藤は慕っており、いつもくっついて来るのだった。
「要領悪いっすよね」
 進藤が誰の事を言っているのか三宅には直ぐにわかった。
「営業三課の宮本さんと同期だってよ。宮本さんは主任だぜ」
「本当っすか。宮本さんの方が随分上に見えるんですけどねぇ」
「当たり前だろ。貫禄っつうのか、要するに今までの人生経験が顔に出てくるんだよ。マイホームパパの山路じゃそんな貫禄は一生付かないよ。せいぜい間抜けな顔して休日出勤に出てくるのが精一杯さ」
「毎週ですからね。そんなにお金に不自由してるんですかねぇ」
「さぁ、庶民の夢とか言ってちっちゃい家を建てたらしいからな。通勤時間が三倍になったとか言って嬉しそうにしていたぜ。いづれにしろああなっちゃお終いだな」
 それ以上、山路の事は言いたくもないというように、三宅は吐き捨てるように言った。「そろそろですよ」
 進藤が時計を見ながら三宅の顔色を伺うように言った。
 三宅は進藤の言葉に小さくうなづいて残ったコーヒーを一気に飲み干した。コーヒーは随分冷たくなっていた。

 二台の営業車が歩道との小さな段差を乗り越えて駐車場に入って行った。駐車場には十時前だというのに既に二十台以上の車が止まっていた。
 車から降りた三宅は車のロックを確認してから携帯電話の電源を切った。これで完全に自分の居場所を突き止められることもないし邪魔をされることもない。
 三宅と進藤は無言のままで短い列を作っていた人々の最後尾に並んだ。

 二人がいそいそと連れ立ってやって来た場所は、最近郊外にオープンしたばかりのパチンコ屋であった。
 固定客の獲得に力を入れようとしているのか、新規のパチンコ屋は出玉率が特によかった。その上、開店時間の直後はモーニングサービスと銘打って更に出玉率を上げているのだった。
 二人はこのパチンコ屋が処女オープンした時から通い詰めていた。勝ったり負けたりが続いていたが、勝つ時は信じられないくらいドル箱を積み上げることができた。トータルするとかなりの小遣いをパチンコ屋からめぐんで貰っていた。

 十時の時報をラジオで聞いた耕作は、逸る気持ちを押さえるために車を交通量の少ない道の端に止めて美智子が入れてくれたポットのお茶を飲んだ。
(もう少し。後、三十分待とう)
 耕作はラジオから聞こえる音楽に耳を傾けて、これから行う計画を頭の中で復唱していた。
 デジタルの時計が十時二十分に変わった途端、三十分待つと決意した耕作であったが我慢しきれなくなってしまった。後十分がどうしても我慢できなかった。仕方無く耕作は営業車のギアをドライブに入れ車を走らせた。目指すは三宅と進藤の二人が毎日溜まっているパチンコ屋『キングギドラ』。

 パチンコ屋『キングギドラ』の駐車場の前で減速し、徐行した耕作は二人の営業車が見えにくい場所に止まっているのを確認した。それから自分の車をそろそろと駐車場の端に止めた。
 車から降りた耕作の手には二つの鍵と、作業用の手袋が握られていた。